イキル

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Astronaut

先日「宇宙兄弟」を見た。

自分は、生き続けるのが嫌になってくると、
「どうしていつか地球だってなんだってブラックホールに飲み込まれるのに、こんな辛い思いして人間て生きてるの?」だとか、
訳の分からない大量虐殺、無差別テロで人が殺されると、「いつか皆死ぬのに、なんでそんな自分の主義主張のために他人を殺すんだろう?なんで自爆してまで人を殺す?」とかって、いつも思っている。
どう考えても草不可避、大草原な中二病の成れの果てでしかない思考回路なのは分かっているつもりだ。
それでも、話を宇宙規模にすると「自分の悩みなんてちっぽけなものに思えてくる」とは最近あまり思わない。
どうしていつか全部終わるのに皆こんな必死なんだろう、しかも必死になった結果が必しも幸せとは限らないし、幸せになった時はもう老人で何もできないかもしれないのに。
とにかく、いつか地球は終わる、ブラックホールに飲み込まれるらしい。終わる。人類は死ぬ。全部終わる。
なのになんで生きてる?頑張る?ばかみたいだ。と思う。
笑われるだろうよね。中二って言うかただのバカ。
中二病の人たちはきっと「生きるのが楽しくて仕方ない」と思えるように「俺が、世界を変えてやる!」とか言ってくれるだろう。
しかも、私にとって生きているのが嫌になる原因なんてそれこそ馬鹿みたいな理由だからね。

でも、この映画を見たら、なんだかめちゃめちゃ泣いた。

生きよう!とは思わないし、生きるのは素晴らしいとかって経験はないし、別にそういう風に思ったわけじゃない。
生きるのは良いことでも悪いことでもない。そこはそれぞれでいい。
死んじゃだめだよ!とか言う人に「あーしにてー」って言おうとは思わない。
「死んじゃだめだよ、生きてるのめちゃめちゃ楽しいよ」て人が悪いとも思わないし、そういう人を「こいつ頭からっぽでバカなんじゃないの」って、自分も馬鹿だから思ってた時期もあったし、今でもたまにそう思ったりするけど、事実、その人が頭からっぽでバカな訳ではない。
でも私は死にたいって言う人が悪いとは思わない。「だったら死んで来いよ、死ぬ勇気もない癖に」とは思わない。
自分も死にたいと思うし、死ぬ気はないし、死ぬのも生きるのも勇気とは関係ない。
勇気と言うのは、生きるのが前提で、生きていく中で頑張る場合に必要なものなんじゃないのか。
生きることって、頑張ろうと思って頑張れることだろうか?
勇気、生きる勇気。生きる勇気ってなんだろう。じゃあ、死ぬ勇気って何?
だったら生きるのも死ぬのもどっちも勇気が必要なんじゃないの?
どっちが、より沢山の量を必要とするか、なんて考えても仕方ないし人それぞれなんじゃないの?
私見だけどね。
死にたいって言いたきゃいいし、辛いって言いたきゃ言えばよい。
そりゃあ、聞いてる方は大変だよね。私だってきっと顏合わせるたびに死にたいって言われたら苛々するだろうしね。

感動、とは心を動かされること、という意味であるのだとしたら、「宇宙兄弟」を見て私は感動した。
単純で中身のない映画だ、と言う人も勿論いるでしょうけれど、わたしは、感動した。
昔の自分は思えなかったかもしれないし、来年見たらそう思えないかもしれない。芸術鑑賞とはそういうものだと思う。
「ありえないでしょwww」みたいな以心伝心とか、奇跡みたいなこととか、真実だと思える時は思えるんだよ。それは、別に、「ありえないでしょwww」っていうひとに言う必要も、伝える必要も、分かってもらう必要も信じてもらう必要もない。あり得ない、と言う人も私も間違っていないし、正しくもない。

でも、観終わって、なんとなく「ああ生きようかな」とか思う訳です。
でも五分くらいするとね、簡単にもう、沈んでいくんです。
人間、そんなに簡単に変われないのです。
それでも、この映画を観たことは私にとって良い選択だった、と今は思うのです。

恐らく、わたしは「生きる」というエネルギーの質量の大きさ?みたいなものに圧倒されたのです。
死ぬのにもエネルギーは必要だが、結果として死ぬということは、終わることです。
死んだ人間や生き物に続きはないから。生きることは死ぬまで続く。
映画の中でも、死んでしまった役は、生きた人間として登場することはないでしょう。

それは「Gravity」(邦題:ゼロ・グラヴィティ)を観た時にも思ったことでした。
地球に生還した彼女が、自分の足で地面を踏みしめて歩き出す。
そこで映画は終わる。

ゼロ・グラビティ [DVD]

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生きることはすごい。良いとか悪いとかじゃなくて、すごい。
なぜかこの二つの映画を見て思ったことは似ていて、この二つに共通するのは「宇宙」なのでした。
死ぬこともすごい。わたしは死ぬことは悪いことじゃないと思う(死にたくない人を勝手に他人が殺すのは「悪」です。)
だけど、今生きてる私は、生きることのエネルギーみたいなものの大きさを感じて、すごい、と思って心を動かされたのです。(兄弟姉妹ものに弱いのも若干ある)
もしそれが子孫を残すために本能的にインプットされているのだとしても、すごいと思う。
死にたいときは子孫繁栄のための人間の生命力とは、何と汚らわしく傲慢なんだろうかとおもう。醜い。醜悪だ。

なぜか部屋にある宇宙飛行士のスマホスタンドに敬礼したい気分になりました。f:id:mcho245:20150218181053j:plain

話は変わりますが、「宇宙飛行士への手紙」と言う歌があります。
「生きようとして生きぬいた稲妻を一緒に見られたから」と言う歌詞があります。
私は、ある人と確かに「生きようとして生き抜いた稲妻を一緒に見られた」様な経験をしたと思っている。
でもたとえばその人はそう思っていなくても、自分は傷付かないし悲しくない。
それに、自分は一緒に見たと思い続けて生きていくだろうと思います。
笑ったりバカにする人もいると思いますけど、そういうもんなんだな、と思います。
大事なことだけど、無理して思い込んでいることでもない。

他人に対してもそういう風に思えたら、もう少し他人が怖くなくなるのかもしれない。
人を大事にして、自分が傷つくのが嫌です。しかもわたしは簡単に「傷付いた」と思うからです。
人が怖いんじゃなくて落ち込むのがとても怖いし大嫌いだ。

なので、宇宙兄弟を観た次の日に「ray」を聞いたらどうしょもなかったです。
なんか、少し、前よりこの歌が解ったような気がした。すごい歌だ。

あと、宇宙兄弟のエンドロールで流れた曲がこれでした。
うわあああってまた泣きそうになった。

Coldplay - Every Teardrop Is a Waterfall - YouTube